人の軽重ではなくつながりの軽重と考えてみては
あいかわらずのココログ放置中、ご無沙汰しております。久々のエントリ、自ブログながら敷居が高いなあ。
開始当初からヘビーに使ってきた先駆者が異口同音に書くわけですよ、「Twitterではfollowもremoveも気軽にしていい(というか、気にしちゃいけないお約束)」と。なんでなんで?
たとえばSNSでのともだち関係(mixiでいうところのマイミク)の加除とTwitterでの加除に"重さ"の違いがあっていいという(むしろ積極的に軽重差を作っているように感じますが)のはなぜ?
(中略)
「画面の向こうには人がいる」というのは、あなたがただってよくお書きになるフレーズですよね?
だったら。
「人」を基準として考えるなら。
その(コミュニケーションの)場が何であるかは枝葉の話であって。
「場」を理由に相手を重く扱ったり軽く扱ったりするのはどうなの?と考えるんですよ。
人を基準と考えるのでなく、「つながり」を基準として考えたらいいのじゃないかな、と思います。人を軽んじたり重んじたりしているのではなく、それぞれの「場」で規定されている「つながり方」に軽い重いがあるのだと。
最近、FaceBookに参加しまして、セカンドライフのグループ(mixiで言うコミュニティと同じ位置づけ)があるので参加したところ、リアルはもちろんのこと、セカンドライフ内でも会ったことのない外人さんたちから続々とフレンド申請が来まして。
「何これ!海外の人はこんなにお気楽にフレ登録しちゃうの!?フリーダムすぎる!」
と最初は恐れをなしていましたが、気がついてみれば何のことはない。
FaceBookでは、初期設定では名前と顔写真を除くプロフィールはフレンド限定公開となっているので、「プロフィールを読むためにフレンド登録する」という行為が一般化しているのでした。
それぞれのサービスの仕組み、規約、ありようなどが組み合わさって、そのサービスに最適な「つながり方」ができてくる。たとえばmixiではある程度の重みを持って、twitterでは気軽に。その「つながり方」そのものが、ネット上の「場」というものではないかと思っています。
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