それはまぎれもなく希望である。
「ブログ文章術」のよねみつさんって、「バロック」とかも作ってたんですね(そこで「ぷよぷよ」にいかないあたりが私)。
すいません話がそれました。新エントリがあがるたび、はてなブックマーク他で話題になるこの連載。今日、最新の下の記事がアップされました。
ブログ文章術 米光一成|Excite エキサイト ブックス : 言葉からこぼれ落ちるたくさんのこと〜intermezzo〜
ぼくの「りんご」に対するイマジネーションと、あなたの「りんご」に対するイマジネーションは、ズレていて、一致することがない。
それどころか、ぼくが、ぼくのイマジネーションとして「りんご」と発した瞬間に、それは社会的な「りんご」というイマジネーションを帯びてしまう。純粋なぼくの言葉としての「りんご」は消えてなくなってしまう。
ぼくの「りんご」は、言葉にすると、ぼくの「りんご」じゃなくなってしまうんだ。これは、絶望なのかな。
それとも、希望なのかな。
ズレが生じてはならない文章、というのを仕事で書いています。それはプログラムの仕様書であったり議事録であったり。というか、およそビジネスで使われる文章というのは、意図した内容が100%相手に伝わり、ズレが生じないことを理想として作成されます。
ズレを生じさせないためにはどうしたらいいか。最も効果的なのは、よねみつさんの例えを借りるならば、読み手の心に浮かんだ「りんご」を、書き手の心にある「りんご」で上書きしてしまうこと。読み手がどんな「りんご」を思い浮かべようと、それを消して、書き手のものと同一の「りんご」で置き換えてしまえば、ズレはありえません。
でもそれって、読むのも書くのも、楽しい文章じゃないですよね。
自分の心の中の「りんご」を後生大事に守り続けるのなんか、やめてしまえばいいと思います。こぼれ落ちるものを数え上げる暇があったら、その目を相手の心にある「りんご」に向けたほうがいい。自分の持っている「りんご」とは違うかもしれないけど、同じくらいに素敵で価値のあるものに違いないのですから。
ブログが対話型のメディアだと言うことはつまり、相手の心に浮かんだ「りんご」に触れ、手に取り、時にはかじってみることもできるということ。 他のメディアでは味わえないその行為を、徹底して味わってみるのもまた一興です。
ところで、真・バロッカー列伝 俺の死に様を見よ!は相変わらず面白いっす。読んでるとそれこそ、読み手それぞれの「主人公」の死に様が思い出されて、久しぶりにプレイしたくなります。いや、いい文章ですよ。
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