« 使用容量アンケート | トップページ | なーんだ、白くなっただけじゃない »
2004.01.08
書きたいことを全部書いてしまうのがライターなのか
書きたいことを「あえて書かない」エディター思考 : ウェブログ@ことのは
あれ?
エディター的には「書きたいことをすべて書く(書ける)わけではない」という思考回路が働く。
元旦の記事には私も感じるところあって、そのうちトラックバックさせてもらうつもりだったのですが、昨日の記事を読むと、記事の主旨って私が捉えてたのとは少し違うのかも。
じゃあ私が読み取ってた主旨って何なのか、というと、美術評論家・布施英利氏の言う「目の視点と脳の視点」ということじゃないかと思ってたんです。
ネット上でこの概念について説明してる文章がないので、リンク張れなくてもどかしいのですが、簡単に言うと「絵画・写真・文章・コミック等の創作分野において、視覚的な事実を描写することに主眼を置く『目の視点』と、視覚よりも脳で作り出したイメージを描くことに主眼を置く『脳の視点』の2タイプが存在する」というようなことです。詳しくは氏の著書「新編 脳の中の美術館」や「電脳版 文章読本」なんかをどうぞ。
で、元旦の記事を読んだ限りでは、ライター属性・エディター属性ってのはそれぞれ目の視点(ライター)・脳の視点(エディター)で文章を書く、ということなんじゃないかと、そう感じたのです。
元旦の記事に
ライターや作家は何を伝えるか、どれだけの情報を盛り込むか、という意味において、やはり書き手の比重が非常に大きくなります。一方、エディターは、提示した情報がどのように受け止められるのか、ということを考える比率が高くなります。
とあるけれど、人に読まれることを前提とした文章を書くならば、「提示した情報がどのように受け止められるのか」ということは、ライターであれエディターであれ、言葉をひねり出す時点で無意識のうちに……というか、本能的に考えているんじゃないかという気がします。書きたいことをひたすら書くというのはライターでもなんでもなくて、単なる素人……と言ってしまったら言いすぎでしょうか(参考:天国と地獄: 書きたいこと、書けること)。情報の取捨選択や加工を行った上で、その純粋な結果のみを提示するのがライターで、取捨選択・加工の背景をも盛り込んだ形で提示するのがエディター。私の中ではそんな捉え方をしています。
投稿: 02:04 午前 [ウェブログ・ココログ関連] | 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/1634/81887
この記事へのトラックバック一覧です: 書きたいことを全部書いてしまうのがライターなのか:
» ライターとエディター、巡る [あそびをせんとやうまれけむ から]
うな さんの記事に、ことのはの松永英明さんからコメントが。 続きを読む
受信 2004/01/08 13:43:59
コメント
コメントありがとうございます。もちろん、松永さんは「それがすべてではない」ことをわかって書いておられると思うのですが、周辺記事でライター→書くだけ→エディターより下、というような図式が出来上がってきてるような気がしたので、単なる方向性の違いじゃないかな、と異を唱えてみたくなったのです。
「映画監督と役者の関係」というのはすごく端的でわかりやすいたとえだと思います。そうそう、そんな感じ、とひざを打ちました。ただ、その伝でいくと、元旦の記事でライターと一緒に挙げられていた「作家」は、少なくともフィクションの作家はむしろエディターサイドに属するのではないかと。実は私は素人小説書きでもあったりするもので、個人的にはそう感じました。
投稿者: うな (2004/01/09 1:43:12)
もちろん「書きたいことをひたすら書くというのは単なる素人」というのはそのとおりで、JOI氏の記事に対するコメントとして「同人誌のレベルから商業本の書き手になる」というところで書いているつもりです。
「比重が非常に大きくなります」というところで、「それがすべてではない」と汲んでいただければ、と。同人誌は自分と同好者の視点だけで充分です(そうでなければメジャーになれます)。
ただ、これは津田さんや加野瀬さんといったエディターとライターの双方を経験している人なら共通して持っている感覚だと思うのですが、ライターは、ある与えられた範囲内でひたすら「膨らませる」方向に思考が働きます。他人の目を気にするとしても、あれもこれも、というサービス精神が強くなると思います。
しかし、エディターは「そぎ落とす」方向に思考が働きます。背景を出すかどうかは別で、むしろそれを感じさせないのがいいエディターでしょうね。
私がエディター兼ライターとして執筆する場合(つまり、企画を立てて執筆も自分でやる場合、あるいはブログ記事)は、最初にエディター的にネタを選別し、それから決めた話題の中でとりあえず書いてみて(ここでライター的に内容を充実させる)、それから再び書き上がったものを見直して修正を入れます(エディター的視点から再整理)。もちろん、100%切り替わるわけじゃなくて、混在しているわけですが。また、必要であれば方向性を変えて書き直したり、補足や大幅なカットや、あるいは分割を入れたりするわけです。エディター的な頭のときは、「せっかく書いたもの」を容赦なく捨てることも平然とやります。ライターに戻るともったいないなあと思うわけですが。
あと、もう一つ、これは独自エントリーにしたほうがいいと思いますが、「話題として取り上げる流れ」と「伝えたい流れ」というのがあります。ライターは話題そのものを伝えられればいいのですが、エディター的思考になると、その題材を取り上げることによって何を伝えるのか、という別のラインができてくるように思います。
言い換えれば、「部分部分の中身を埋めていくのがライター」「全体を組み上げるのがエディター」ですかね。映画監督(または演出家)と役者の関係(素人芝居とは別)という感じかもしれません。役者は自分の役を一生懸命演じればいいのです。映画監督はすべての役を調整して緩急をつけていきます。あるいは現場レポーターと番組のディレクターとか。レポーターは見たことをできるだけ伝えるのが使命ですが、そのレポートを採用するか否かはディレクターにかかっています。
で、こういうコメントはかなりライター的思考で書いてたり。
投稿者: 松永英明 (2004/01/08 5:09:06)


